さとう野火「白く生まれ馬酔木花房陽を散らす」(真如堂法輪院墓碑・爲文學野火浩照居士零位より)・・
愚生は昨夕、四国新居浜で行われた、立命館大学百万辺寮々生の集いの帰途、京都に一泊して帰京した。京都では、「立命俳句」の創立者のひとりだったさとう野火の墓参りを、愚生と同じ百万遍寮生でかつ「立命俳句」7号では一緒だった安田惠(彼は、寮への機動隊導入で一朝、着の身着のまま放り出された)とともに春雨のなかを参った(真如堂前のバス停留所からけっこうな坂道を歩いた。安田に登れますか?と言われながら)。
愚生は、さとう野火と出会わなければ、ここまで俳句を続けていたかどうかは分からない。さとう野火は、その後、愚生も含め、久保純夫、城貴代美、岡田耕治。東野月沼、土井英一、北野真輝等を擁して戦無派集団「獣園」を創刊した。
さとう野火(浩)2012年7月26日没、享年71。
その日は、旅館・三木半に宿泊した。ここで、珍しいものに出合った。旧知の眞鍋呉夫、茨木和生、西村和子、山本洋子などの色紙が飾られていたのだ。思わず、一句詠んだ。
春灯し くれおまなべの 句に会いし 恒行
★閑話休題・・書肆山田・大泉史世さんの墓にお参りした(知恩院)・・
翌日は、知恩院納骨堂に合祀されている大泉史世の霊に花を手向けた。最近、夫君だった鈴木一民が高橋順子「詩を書くことは生きる励み」(「巨福」令和6年雨安吾 第119号)を送ってくれていた。文中に、高橋順子の夫だった車谷長吉のことはもちろんだが、大泉さんへの記述もあった。それには、
(前略)大学で終生の友人になった人に出会った。大泉史世。彼女はもの静かだが、聞くべき一家言を放ち、お酒が好きで不良で、親しくなった。「あなたは感受性の横溢です」という手紙をくれた。理性的な人だったが、内には烈しさを秘めていた。(中略)
じきに彼女は独立を果たし、「書肆山田」という出版社を鈴木一民とともに経営。詩の雑誌「潭」や「るしおる」を刊行、翻訳書にも力をそそいだが、営業的に成功とはいえなかったようだ。自費出版の詩集はかなりの数に上り、疲労困憊しただろうが、装丁家としての腕を上げ、評判をとった。詩を書く人たちを応援することが彼女の「詩」だったのか。自分では一冊の本も書かなかった。(中略)
車谷は、書けなくなったら、漫然と生きていってもしょうがない、という考え方をしていた。二〇一一年に脳梗塞を起こして書く気力を失った。それから四年後に誤嚥性窒息で急逝した。
五月十七日、晴れて暑いくらいの日だった。大泉史世から追悼のメールが来た。「五月の晴れて美しい日にこの世を去るのは、いいなと思う」というような、私を悲しませないための配慮が感じられた。ところが、一昨年の五月十九日、大泉史世も、がんのため亡くなった。本当に五月に死ぬのはいいな、と思っていたのかな、と空をあおぐばかりである。
とあった。
て
な
ふ
ゴ
云 と ネ ン メ」↑
*愚生注:変形の永久の回文になっています。
「死ぬときはみなゴメンネと云ふて死ぬ」

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