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増田まさみ「なぶられて嫐る浮身や水とんぼ」(『かざぐるま』)・・

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 増田まさみ第7句集『かざぐるま』(霧工房)、高橋修宏の帯文には、  うしなわれた原郷を思い続けながらも / ついに到達しえないという諦念や哀しみが  増田まさみの俳句作品をかけがえのない生の  さらに死の質感を立ち上がらせるのではなかろうか。  とあり、著者「あとがき」には、  本集は『とまり木』(2020)に続く第七句集である。収録する作品はすべて高橋修宏氏の個人誌「五七五」に掲載されたものである。 (中略)  句集名の『かざぐるま』は、わたしの第二句集『季憶:M’emoires』(1985)に所収の「逆夢も凹凸撫でるかざぐるま」より採択した。 (中略) 「逆夢の凹凸撫でる」のは、たしかに歳月を経たいまも変わらぬわたしの句の出自であり表現の根拠である。内なる〈個〉への慰撫であり拘りであり、同時に生存のあらがいである。  手元の古びた日記の片隅に「こども時代の孤独以外に人を「書く」ことに追いやるものをわたしは本当に知りません」とのメモ書きが見つかった。マルグリッド・デュラスの言葉である。デュラス晩年のこの痛恨の回想が、どこかわたしの幼少期の闇と相応しているように感受したのかもしれない。風が吹いても吹かなくても「かざぐるま」は回る。迂い日の暗黙の約束のように―ー。  とあった。ともあれ、本集より、愚生好みになるが、いくつかの句を挙げておこう。   山鳩のくらい母情を感電しぬ         まさみ    青しぐれ象は涙を溜めている    螢藺 (ほたるい) にほたるの兆すわが忌日   朴の樹は泣き上戸かな鳥零す   銀漢にくびり鶏鳴く昭和かな   空蝉にまだ陽の残る浅きゆめ   うたたねにかの世の鶉鳴きにけり   寒昴あまたの死魚を降らしけり   さきの世の絲にからまる螢狩り   狂わねば狂う褻闇や田螺なく   ふってわく考 (ちち) のなみだも蜉蝣も   まだ蒼き父の化石やさるをがせ   羽毛なき蟲とび発てりヒカリゴケ     増田まさみ(ますだ・まさみ) 1937年、鳥取県生まれ。          撮影・芽夢野うのき「日本忌秋の桜に鳥無数」↑

西東三鬼「広島や卵食ふ時口ひらく」(『広島・長崎・沖縄からの永遠平和詩歌集』より)・・

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 鈴木比佐雄・座馬寛彦・羽島貝・鈴木光影編『広島・長崎・沖縄からの永遠平和詩歌集/報復の連鎖からカントの「永遠平和」、賢治の「ほんとうの幸福へ」』(コールサック社)、帯には「 269名の詩人・歌人・俳人が世界に贈る希望の書 」とある。鈴木比佐雄の解説「 『永遠平和』を宿し未来につなぐ多様な詩歌の試み/広島・長崎・沖縄からの永遠詩歌集―—カントの『永遠平和』、賢治の『ほんとうの幸福』へに寄せて 」の末尾の「編中」の結びには、 (前略) 今回の「永遠平和」のテーマとした当詩歌集は、被爆者や戦禍に遭遇した人びとの声にならない無言の思いや叫び声の代弁、そして核兵器や大量破壊兵器の廃棄を現実的に進める試みを詩人・俳人・歌人たちが言葉を通して表現しようとした。本書の英語版は二〇二五年春に刊行される予定で、併せてお読み下されば幸いだ。世界の人びとに日本人が広島・長崎・沖縄で経験したことや、現在進行中のアフガニスタン・ウクライナ・ガザなど世界の戦争地域に関する詩歌も併せて収録させて頂いたので、その思いをお読み下さればと願っている。  とあった。俳人作品だけでも約100名ほどの昨品が掲載されている。その中から、わずかになるが、以下に挙げておきたい。    原爆ドームただ一本の霜柱           長谷川櫂    長梅雨や「廃炉詩篇」の長恨歌         安西 篤    人間を乗り継いでゆく神の旅          堀田季何    空で溶けてしまふ噴水原爆忌          飯野幸雄    炎天はドームの骨をまだ舐る          中原道夫    黒い雨がふると考えない葦が考える       森 獏郎    「核」の字の「人」はつぶれて原爆忌      東 國人    セシウムの霊の憑きたる雪女郎         小橋啓生    セシウムの得体や海霧 (じり) に眼を凝らす   小沢真弓    熱かつたろう熱かつたろう石一片       宇多喜代子    神よ被爆地に星粒を撒いて下さい        前川弘明    原爆忌は季語ではない日本の青空        田中 陽    にんげんはあてにはならぬところてん      瀬戸正洋    うりずん南風 (ぺー) ∞ (むげんだい) に横たわる                       野ざらし延男    歪んだ口...

三宅やよい「夢殿の声を聞かずや鳥の耳」(『三宅やよい句集』)・・

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  現代俳句文庫Ⅱ『三宅やよい句集』(ふらんす堂)、著者のエッセイ「勝手に一歩」。解説に池田澄子「『船団の俳句』三宅やよい」。一句鑑賞などに、坪内稔典・あざ蓉子・内田美紗・小西昭夫・南村健治・本村弘一・穂村弘。エッセイ「勝手に一歩」(「WEP俳句通信」2018年10月号・再掲」)の中に、  (前略) 時代は変わっていくのである。  いま俳誌の経営と経営を支えている六十代と七十代が老いて結社の屋台骨を支えきれなくなったとき俳誌の多くは滅び、俳句媒体の形は変わるだろう。俳誌に代わる新しい俳句の顔が出現したとき、かつての私のようにまったく俳句に縁のない人間を呼び込む新しい入口が開かれるかもしれない。  とあり、また「あとがき」には、      俳句を始めて二十数年、思いがけずに現代俳句文庫に加わることができました。  大阪で坪内稔典先生と出会い俳句への道を開いていただきました。先生は常に私を励まし見守ってくださいました。東京では詩人の清水哲男さんから広く俳句を読む楽しさを教わりました。  とあった。ともあれ、本集より、愚生好みに偏するが、いくつかの句を挙げておこう。    手をつなぐソラマメみたいな双子です        やよい    春愁もぶちこんじまえ紙袋   木に登る少年は老い夏木立   くらがりに靴のふえゆく花野かな   三組の窓の前だけ花盛り   かばんよりかばんとり出す花の昼   帆柱に帆のなき建国記念の日   嵌め殺す海より碧き色硝子   コスモスの野を運ばれてゆくソファ   右京から左京に渡るホッカイロ   湯にのばす赤子のからだ牡丹雪   出るおっぱい出ないおっぱい春の月   玉葱を引き抜くからだ軽くなる   星涼し次々たたむパイプ椅子   生きている人が集まる菊日和   良夜かな足音のない土の道     三宅やよい(みやけ・やよい) 1955年、神戸市生まれ。     撮影・芽夢野うのき「秋空を遠く放ちていまはうたたね」↑

石川啄木「いたく錆(さび)しピストルが出(い)でぬ/砂山の/砂を指もて掘りてありしに」(『石川啄木の百首』)・・

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  小池光著『石川啄木の百首』(ふらんす堂)、巻末の「解説『歌』の原郷」には、   石川啄木は、明治十九年二月二十日、岩手県南岩手郡日戸村に生まれた。父一禎は僧職、母かつも僧職につながる家の出で、つまり悪木は寺の子である。 (中略)   教員をしながら処女小説「雲は天才である」「面影」「葬列」などを書く。また前年に十三歳のとき知り合った堀合節子と結婚して、長女京子が生まれ、父親となっている。啄木の生涯を特徴づけるのはなによりその早熟性であり、またテンポの速さである。 (中略)   三行書きというアイデアはこのプロセスの中で忽然と出現したものらしい。短歌を一行でなく三行で表記するというまさに革命的方法は、友人土岐哀果のローマ字歌集『NAKIWARAI』に先例があるが、ローマ字ではなく日本語で短歌を三行に書くのは啄木のまさに発明であった。短歌を三行で書くことで、いかにも読みやすい、ドラマチックな印象を際立たせるものとなった。 (中略)   明治四十五年四月十三日、夜の九時三十分、小石川区久堅町の借家で永眠。母親は先月にやはり肺結核で死んでいる。枕元には妻節子と長女京子、家出先から駆けつけた父、そして若山牧水がいた。二十六年と二ヶ月の生涯であった。 (中略)   近代短歌の第一人者は誰がみても斎藤茂吉であろうけれど、茂吉の歌にはついになかったものを啄木の短歌は残した。 (中略) それは短歌という制限された文学の伝統的一形式でなく、むきだしの「歌」そのものといっていい。近代の無名無数の人々のこころに、そっとその失楽失意への共感と慰めをあたえる近代の「歌」を、その原郷として啄木は作ってみせたのである。  とあった。本書中よりいく首か挙げておこう。    いのちなき砂のかなしさよ   さらさらと   握れば指のあひだより落つ   たはむれに母を背負ひて   そのあまり軽 (かろ) きに泣きて   三歩あゆまず    ふりさとの訛 (なまり) なつかし   停車場 (ていしゃば) の人ごみの中に   そを聴きにゆく   マチ擦 (す) れば   二尺ばかりの明るさの   中をよぎれる白き蛾のあり   小池光(こいけ・ひかる) 1947年、宮城県生まれ。                           足尾町中才↑ ★閑...

伊藤政美「わが息を向ひ風としかざぐるま」(『天王森集(てんのもりしゅう)』)・・

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 伊藤政美句集『天王森集(てんのもりしゅう)』(菜の花会)、著者「あとがき」に、   この句集は、既刊の四冊『天の森』『天網』『天音』『父の木』を集約したものである。 (中略) 先の『天の森』の「あとがき」にも書いたが、集名にした天王森というのは、この地の古い字名である。  それまで四日市の旧市内に居た私たち一家は、昭和二十(一九四五)年六月の空襲で、祖父母の生地である今のこのところへ移り住んだ。以来、一度も外へ出ることなくここに住み続けている。当然私の大方はここから生み出されたものである。 (中略)  「〈俳句は積み重ね。毎日毎日が大切。それはまた、今を大切に生きることでもある〉といういさを先生の言葉が重い」と書き「すべてに、向き合って生きる姿勢を崩さないようにしたい」と締め括った。  それは、今も変わらない。  四冊に収録した句数は、一三六六句。そのうち今回残したのは、五六四句。それが今の気持である。 とあった。ともあれ、集中より、愚生好みに偏するが、以下にいくつかの句を挙げておこう。   裏山という名の山も笑ひけり         政美    田がふくれ山がふくれて若葉雨   枯野明るしまだ未知の空があり      木下闇生者は死者に忘れられ   地に届くまで雪といふ暗きもの   朧の夜生きてゐるから訃報来る   日向ぼこ黙つてをればあたたかし   冬銀河この世通りし父よ母よ   花筵いつも真ん中空いてをり   白日傘行く最後まで真白なり   見てをらぬあひだも揺るる秋桜   いま死ねば反古も遺品や秋灯下   出だしだけみな知つてゐる手毬唄   花道も末路も桜吹雪かな   命がけの時間始まる地虫出て   鳴かぬのに鳴かされてゐる亀の春   人は淋し蓑虫鳴かせ蚯蚓鳴かせ  伊藤政美(いとう・まさみ) 1940年9月、三重県四日市市生まれ。 ★閑話休題・・赤野四羽「殺すなとあらゆる言葉砂嵐」(夜蟻ズ×Marfaより)・・  昨日、8月12日(日)午後3時~JR武蔵境駅近くで行われた「夜蟻ズ×Marfa」(於:810 OUTFIT)に出かけた。俳人・赤野四羽(よつば)こと夜蟻ズ「アカノシバヒト(sax)・鈴木和哉(drums)・山下渉(guiar)・渡辺隼巳(contrabass)」&Marfa(舞手)のジョイントライブであった...

山根摩耶「無意識に境界線を定めては私とあなたのにたとこさがし」(「江古田文学」第116号)・・

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 「江古田文学」第116号(江古田文学会)、特集は「 境界から世界を見つめる 」。インタビューに関野吉晴「 現代文明の外と内 森羅万象における人間の存在 」、論説に上田薫「 境界=私という幻影―—依存関係によるい生成ということ―ー 」、浅沼璞「 俳句における季語の境界―—無季俳句からの照射 」、小神野真弘「 閾をまたぐことなく浮遊する 」、佐藤述人「 越境による境界 」、香月孝史「 『越境』という職能―—「アイドル」のわかりにくさについて 』等。その中の浅沼璞は、 (前略) 現に芭蕉が無季(雑)の発句として題詠を残しているのは「名所」に材をとった二句のみであった。   徒歩 (かち) ならば杖つき坂を落馬 (らくば) 哉                 「笈 (おい) の小文 (こぶみ )」(一六九〇年頃)   あさよさを誰 (たれ) まつしまぞ片 (かた) ごゝろ                「桃舐 (ももねぶり) 集」(一六九六年頃)  一句目は「杖つき」に杖突坂を、二句目は、「まつ」に松島を掛けており、俳諧らしく「名所」を詠み込んでいる。  これは憶測に過ぎないけれど、芭蕉がほかに無季のテーマ詠を発句に残さなかった理由の一つとして、連句の平句で存分に無季詠を成し得たという事があったかもしれない。 (中略)  このほか無常や別離など、芭蕉連句に無季の題詠を探すに不自由はない。芭蕉が「発句も……無季の句のありたき」としながら、さほど雑の発句を残さなかったのは、やはり季語的境界のない自由な付句の世界に遊べたから、というのが要因の一つであったに違いない。 (中略)  さて近代以降、季語的境界のない自由な付句の世界を持たなくなった俳句というジャンルにあって、その連句への潜在的意欲を指摘したのが高柳重信氏であった。これは雑の付句によって充足を得たであろう芭蕉とは真逆のパターンで、〈新興俳句運動の渦中での連作俳句や無季俳句の実践〉等をあげ、そこに季語に拘束されない付句への潜在的意欲を高柳氏はみたのであった。ただ新興俳句運動における無季俳句のテーマとは、芭蕉で確認したような古今的なものではなく、国家間「戦争」という現代的なものであった。   と記していた。 ★閑話休題・・二三川練「青空のやましいところ撫でている」(「えこし通信」28号より)・・  江古田つながりで、...

佐々木歩「夏蜜柑だつて血なんて通はない」(「円錐」第102号)・・

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 「円錐」第102号(編集部/発行所 山田耕司)、特集は「第8回 円錐新鋭作品賞 受賞者最新作」。その他の「展・展・望・望」の特別寄稿に髙橋修宏「 カウンター・カルチャーとしての六林男 」、また摂氏華氏「 作者の情報はどの程度必要か 」、原田もと子「 桐生吟行記 」。そして論考に、山田耕司「 澤好摩との時間を振り返って 」、吉冨快斗「 ロラン・バルト『表徴の帝国』試論(一)―—『意味の家宅侵入 』」、今井泉康弘「 七月七日の詩学―—織姫の巻 」、その今泉康弘の中に、   《1 七夕はいつなのか》  雑誌「NHK俳句」二〇二四年七月号巻頭には、新暦による七月のカレンダーが見開きで載っている。その七日の欄に、「七夕」とある。即ち、同誌では新暦の七月七日を七夕だとする立場に立っている。   同号は七夕の特集をしている。その発売日は六月二十日であり、これは新暦七月七日を七夕だとする認識に対応している設定だろう。  ところが、その立場・認識とは異なる記述が、その後にある。「季語深掘 (ふかぼり) 」という特集欄があり、「七夕」を特集しているのだが、(「深掘」とは 「深い堀」のことではなく、「深く掘る」の省略形らしい)、そのうちの「七夕の名句」という記事では「七夕は、旧暦の七月七日」だと断言している。同記事を読む限り、他に日付への言及はなく、これは新暦七月七日ではない と定義している、と考えられる。 (中略)  その結果、七夕について一方では新暦七月七日だとし、もう一方ではそれを否定する、という矛盾が生じた。ここにあるのは、文学上の理念の一慣性ではなく、きつく言ってしまえば商業主義、ご都合主義から生じる矛盾である。 (中略)  それが一八七二年(明治五)十一月、政府は突如として、改暦を発表した。 (中略) その留守を預かっていた大隈重信らのもとに、同年夏、翌一八七三年(明治六)の暦が出来上がって献上されてきた。大隈はこれを見て、大いに驚いた。なぜ驚いたかというと、明治六年には閏六月があった。六月が二回あるのである。閏月があること自体は旧暦において当然のことである。しかし、大隈はこれに驚いた。なぜか。その前年、官員の給与が年俸制から月給制に改められていた。閏月があると、一年の中で通常より一回多く給与を支払わなくてはならない。(中略)とても給与を一回多く支払うよう余裕はない...