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種田山頭火「水音のたえずして御佛とあり」(永平寺句碑)・・

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  6月8日(木)から本日10日(土)まで、2泊3日の敦賀の旅を、きすげ句会の仲間としてきた。敦賀生まれのS氏の実家に泊まらせていただいた。多くは市内を自転車で巡った。晴男、晴女らしく天候には恵まれた。なかでも、2日目の朝の永平寺は霧雨模様だったが、それが一層新緑を情緒あるものにさせていた。そのあと、永平寺から東尋坊まで直通のバスがあるというので(確たる予定には入れてなかったが)、一時間待ちで、昼食を食べて行くことにした。バスが東尋坊につく頃から快晴の空になった。投句箱があるところでは、その都度、一句入れた(投句箱には投句用紙に鉛筆が箱の下部にセットされている)。  永平寺参道・道元「 守るとも思わずながら小山田のいたずらならぬかかしなりけり 」↑      道元「 春は花夏ほととぎす秋は月冬雪さえてすずしかりけり 」↑             山頭火「 生死の中の雪降りしきる 」↑        気比神宮・芭蕉「 月清し遊行のもてる砂の上 」↑        気比神宮・「 なみだしくや遊行のもてる砂の上 」↑       気比の松原・高濱虚子「 松原の続くかぎりの秋の晴 」↑            気比の松原「 後塵は拝すべからず萩若葉 」↑   敦賀市内・商店街にはいたるところにある・芭蕉「 月いつこ鐘は沈るうみのそこ 」↑            芭蕉「 月のみか雨に相撲もなかりけり 」↑                福井県は恐竜王国、福井駅前だけではなく、各駅のいホームにこのよう写真を撮って下さいと、自動的にアナウンスされている。↑愚生と恐竜。         芽夢野うのき「さてもさてもハイビスカスの赤貰う」↑

宮﨑莉々香「あたまから日永はなかにまぎれこむ」(「オルガン」33号)・・・

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 「オルガン」33号(編集 宮本佳世乃/発行 鴇田智哉)、座談会は「さて喃語俳句」、その基調は宮﨑莉々香「喃語俳句のために」、その中に、  (前略) いかに自身の身体感覚を言葉にしていくかを目指す時、言葉になりきらない、訛った、出来事としての俳句があるのだと思う。出来事を捉える言葉として俳句があるのではなく、俳句自体が出来事としてあるようにするのだ。  ただそこにあるものを、言葉によって美しく、大きく見せたり、客観的な視線で冷静に捉えることもかのうだろうが、それは「わたし」から離れた、「わたし」が抜け落ちた者として「もの」に対峙するいうことになっていくのではないか。   とあり、これらをタタキ台にして、座談会が行われている。ただ愚生には、その錯綜感がよく理解できていないので、興味ある方は、直接本誌をご覧いただいきたい。ここでは、後半の部分を少し抜き出して紹介しておきたい。 〇倫理の問題 田島 俳句的に対象との距離が維持されていないと、俳句は書けないし、虚子はその部分を「極楽の俳句」と言ったと思うんです。カラオケ的な俳句や文化資本的な俳句といった枠組みがないと、俳句はかなり書けないものになると思うんですよ。宮﨑さんのこの文章で言っていることだけを目指すと、俳句はすごく痩せてしまう可能性があると思います。 (中略) 田島 櫂未知子さんに〈火事かしらあそこも地獄なのかしら〉という句がありますが、この句には客観写生に含まれる、ある種の残酷なまなざしが含まれているように思われます。詠まれている対象の過酷さに対して、それを眺めている主体はあくまでも安全な場所にとどまっている。 福田 その句は、対象を客体化しているかもしれないけれど、要するに、客体化をめぐる倫理というようなことですか。 宮﨑 私の問題提起のなかには客体化に対して物申したい、も含まれているように思います。〈春寒の灯を消す思ってます思ってます〉(池田澄子)もそうですが、そういう句を発表してもいいんですよ。ただ、もうすでに政治的なのに、俳句は政治的じゃないですよみたいな顔をして発表しているのがどうかなって思うんです。火事の句も、客観的な立ち位置に立つという政治性を持っているけれど、俳句は政治的ではない、俳句として立つみたいなことを言うじゃない?痛みをわかっていない感じが嫌なんですよ。 (中略) 福田 なんだろう...

岡田由季「幼虫の記憶の失せし蝶の昼」(『中くらゐの町』)・・

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 岡田由季第2句集『中くらゐの町』(ふらんす堂)、挿画は吉永直子、装幀は和兎。 著者「あとがき」の中に、    三十代までに十数回の転居をしましたが、気が付くと、今の住居での暮らしが十九年ほどになります。都会でもなく、本当の田舎でもない、当地での生活にいつしか馴染んだようです。ここ数年はコロナ禍ということもあり、一層地元と向き合うことが多くなりました。そのような生活のなかで、句の多くが生まれました。  とある。集名に因む句は、    中くらゐの町の大きな秋祭        由季   であろう。ともあれ、集中より、愚生好みに偏するが、いくつかの句を挙げておきたい。    日向ぼこ赤べこ同意しつづける   内側に座つてみたき夜店かな   間違へて入つてゐたり蜜柑山   春寒しくしやくしやに揉む犬の顔   飛ぶ犬と飛ばない鳥を飼ふ日永   牡鹿声絞り出すとき舌も出し   飛ぶものが飛ぶものを食べ秋半ば   肉眼にも魚群探知機にも鯨   裸木となりても鳥を匿へり   笹鳴や光の粒の見えてくる   月の夜のきれいな骨のはづしかた   星涼し電卓のもう進化せず   県庁と噴水おなじ古さかな   岡田由季(おかだ・ゆき) 1966年、東京生まれ。         芽夢野うのき「雨ストップ赤百合に音楽きたり」↑

大泉史世「雨の空群れるものかよ独り往く」(「大泉史世一周忌に」)・・

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   「大泉史世一周忌に(2023年5月18日)」、先日、愚生は鈴木一民から連れ合いだった大泉史世の一周忌を若い詩人たちがしてくれたと伝え聞いていたが、そのときのリーフレットと合わせて新聞記事などが添えられていた。もとより、愚生にとっての便りであるが、愚生が見逃していた新聞記事のコピー(「毎日新聞」5月15日夕刊)、前田英樹著『保田與重郎の文学』(新潮社)も同送してくれていた。その前田英樹の出世作となった『沈黙するソシュール』(書肆山田)は、鈴木一民と大泉史世の尽力によって世に出された書だった。その前田英樹は、鈴木一民も含め、愚生らが若かった一時期、すでに若き武道家であり、師範代だった彼に、新陰流兵法を学んだことがあったのだ。  リーフレットの大泉史世「淋しいなぁ。不公平ダョ。」には、   今年は滅法暑い夏だった。しかし、ここ数年、毎年同じようなことを言っている気がしないでもない。冷した中華そばを食べるといつも思い出す声がある。 (中略) 彼、吉岡実が亡くなって、まる十年になる。その年はまた、やはり詩人である友人・高橋順子が後に晩い結婚をすることになる人物に出会った年でもある。 (中略)   「ペコパン」のマダムと最初に会ったのは、それからさらにきっかり二十年前のことになる。かけだしの社員として私が勤めていた出版社に、社長秘書兼経理担当者として登場したのだ。まだ「細田さん」といって、名のとおりに細い、ボブカットの似合う颯爽とした女性だった。 (中略) 会社は若い社員が多く、お姉さん気質の彼女に何かと面倒を見てもらった。けれども、少人数だが、激しいやりとりのある人間関係が煩わしかったのか、気風に染まなかったのか、彼女は間なしに辞めてしまった。 (中略) そうしてやむなく転職した結果、細田さんは山田宏一さんと出会うことになる。パリに出掛け、念願のコーヒー店を開くことになる。やがてチェロに親しむことにもなる。一つのことがどういう展開をして行くかは本当に判らないけれも、彼女の運命には偶然だけではない確かな選択による必然のようなものを感じる。つまり、それこそが生の成就ということなのだろうか。  コーヒーは抜群のおいしさだと思うが、ビンボーなこともこの上なかったと思う。 (中略)   その彼女が「不公平だなあ……」「やっぱり不公平だと思うな」と私に言うことがあった。乳癌...

こしのゆみこ「数式のときどき鳥の巣のような」(「豆の木」No.27)・・

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 「豆の木」No.27 (豆の木)、特集記事は、第13回北斗賞受賞・佐々木紺に第28回20句競作豆の木賞の高橋洋子「おおあれちのぎく」。他に評論は、穂崎円「第十三回北斗賞佐々木紺『おぼえて、わすれる』を読む――佐々木紺の透視しする目」、福田若之「舟への憧れ――山岸由佳『丈夫な紙』評――」、近恵「俳句とハラスメント――ご飯が用意されてる生活――」。エッセイに、こしのゆみこ旅ノート㉔「円空の人麻呂傾ぐすずしさよ/高山・下呂温泉円空仏紀行」。編集後記に相当する「豆の木ノート」には、 ■髙橋洋子は「豆の木」賞受賞二回目。「豆の木」賞をとると翌年の「豆の木賞集計とりまとめ係」強制就任のため、本人は「目出度さもちう位也」のようであるが、今、豆の木句会は高橋洋子ブームが来ちゃっている勢いだ。  とあった。ともあれ、本誌よりいくつか句を挙げておこう。全員の一句と言いたいところだが、いまや「豆の木」も大所帯、全部は挙げたくても挙げきれない。失礼する。    おおあれちのぎくさうざうの羊飼ふ       髙橋洋子    てのひらとはくれん換へてもらひけり      佐々木紺    田に桜神様の水貯めてある           田島健一   生きているくちびる粘り花の昼        月野ぽぽな   石鹸玉も気球もこわれて消えた         中内火星    えぴきゆりあん月光の鵺飼ひ馴らす       中嶋憲武    雨女ゐる引越や青木の実           三島ゆかり    ヨットへと届かせるため小声になる       三宅桃子    滝割れて歯並びのよき山の神         宮本佳世乃    冬林檎置くはじまりの雨のやう         山岸由佳    春の夜キッチンに踏む黄の輪ゴム        吉田悦花    国葬もロックも消えて枯木星          吉野秀彦    二億年前の星座の芒原             上野葉月    われの手は山に沈んで鷹渡る          大石雄鬼   髭塚に折り返したる蟻の列           岡田由季    絨毯を進む間に豹変す             小野裕三    西鶴忌まひるの爪を塗りなほす         柏柳明子   街に風花脚注を付すように           片岡秀樹    水温むだんだん濡れてゆく体       ...

五十嵐秀彦「黒田杏子巡礼花人は発てり」(『暗渠の雪』より)・・

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    五十嵐秀彦第2句集『暗渠の雪』(書肆アルス)、序句は黒田杏子、    青嵐五十嵐秀彦屹立       杏子  著者「あとがき」に、  (前略) 私の十年は、俳句集団【itak】とともに歩んだ歳月です。なかでも二〇一八年に札幌で開催した「藍生+itak合同 全国のつどい」がハイライトでした。本来は結社「藍生」の「全国のつどい」だったものを、黒田杏子先生がitakとの共催としてくださったのです。 (中略)   二〇二三年一月から三月にかけて北海道文学館で「細谷源二と齋藤玄 北方詩としての俳句」を企画・監修しました。 (中略) マブソンさんは講演の中で「北方詩としての俳句」という点について強い共感をもって語ってくれました。その時、私としては何気なくつけたサブタイトルと思っていたものが案外私の全思想であるのかもしれないと気づかされたのです。常に行き当たりばったりで歩んできたはずの歳月が、実にはっきりとした道でした。  そのひとすじの道を無数の点で繋いでくれた句が、この一冊に収められています。 (中略)   『暗渠の雪』の準備中に黒田杏子先生が突然お亡くなりになりました。  ゲラを見ぬうちに序句を作ってくださって、「できました。言います。〈青嵐五十嵐秀彦屹立〉。全部漢字です。」と電話をいただいたときの、切れのよい張りのある声が忘れられません。先生の突然の不在を、まだ受け入れられずにいます。 (中略)   ともかく、第二句集ができました。  深谷雄大先生(二〇二一年十二月二十日逝去)と黒田杏子先生の墓前に、このささやかな句集を捧げます。  私はもう、ひとりです。    黒田杏子巡礼花人は発てり  とあった。集名に因む句は、    五体貧しく雪の暗渠となりぬ      秀彦  であろう。ともあれ、愚生好みに偏するがいくつかの句を挙げておきたい。    暗室に父の真夏のうごめける   けあらしや父なきことを知らぬ母   氷点下七度の春を仰ぎけり   石榴割る泣くべき夜を泣かぬまま   おうと言ふ男しまきの中を来る   吹かれゆく雪無名なり無明なり   北へ来し人らの墓標夏ポプラ   一統の罪北辛夷高く高く   冷蔵庫死者の家より運び出す   逃げてゆくものらのごとく雪が降る   マタイ伝二十七章きらら 這ふ   闇を抱き火を抱き荢殻こぼれけり   ふらここの開放弦を...

加藤節江「まつこと綺麗やなう室の百合十個」(『風が吹く』)・・

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  加藤節江句集『風が吹く』(明日の花舎/発売・邑書林)、跋文は柳堀悦子「母の結婚」、それには、  (前略) 私の実母・加藤節江九十四歳が我が家に来て、今年で八年目になる。 (中略)   そんな母は、二年前から俳句を作り始めた。自分のことを人に伝える楽しさをお覚え、五七五で語り始めたのだ。少女時代の美濃での生活を俳句にする母は、すこぶる楽しそうな顔をする。 (中略)     学友は置屋の娘半夏生    節江  その友達の家。遊びに行ったことあるの?と聞くと、当たり前よ親友だもの。学校帰りにね。ちょっと寄るのよ。普通の家よ。と笑って答える母。  そんなやりとりをしながら過ごす母との時間が貴重で楽しくてしかたない。  「里」に投句するようになってから、母は日に日に元気になり、表情も明るくなってきた。  時には人生の苦しい体験も一句にする母。    年の暮祖父は女と出奔す   節江   自分の句を読みながらケラケラ笑い、話し出す。   しょうがないジジイなのよ。仕事なんかしないくせに全財産を持って遊郭の女の所へ出ていっちゃんたんだから。   その上、その女の人と近くに料亭作って商売まで始めるのよ。 (中略)    *   女は強くて働き者が一番。男なんてダメよ。当てにしてはダメ。  それが母の持論である。  とあり、著者「あとがき」には、  私の父は、土岐郡土岐津町(現・土岐市土岐津町)の紅窯陶苑という美濃焼の窯元の四代目で、虎沢静雄と言いました。母はすゑで、兄昭雄、弟英雄と三人兄弟の真ん中の長女として育ちました。  父静雄は家業の窯焼はせずに、友芳という俳号で狂俳「三好俳壇」の捌きをしていました。  「狂俳」とは、江戸時代後期に俳諧をもとにして岐阜で生まれ、美濃地方を中心に普及した、最も短い定型詩です。 (中略) 狂俳は、与えられたお題に対して、五・七または七・五の十二音で面白くユーモアに富んだ句を作ります。 と大野町立中小学校コミュニティ・スクールだより「人来鳥」にあります。 (中略) いまは、「里」皆さんと一緒に俳句を作るのが生きがいです。 元気百倍、百歳まで頑張りますので、よろしくお願い申し上げます。  とあった。ともあれ、以下にいくつかの句を挙げておこう。    紅と白の芍薬土岐の家           節江     兄 虎沢昭雄は    網持つて野うさぎ追へり...