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石原友夫「走り梅雨音なく乱る心電図」(第一回「浜町句会」)・・

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  本日、5月15日(水)午後1時半から4時半、第一回浜町句会が行われた。元は、現俳協金曜教室のメンバーがこのまま散会するのを惜しんで頂いて、ならば、3か月に一度くらいのペースでということになった。 句会費は当面その都度の1500円、世話人幹事は白石正人・川崎果連。また、浜町句会は出入り自由ですから、どなたでも参加できます(当面欠席投句はありません)。  ともあれ、以下に一人一句を挙げておこう。    琉球を灼きつづけたる人類史        林ひとみ    雲の網仮想空間の門口           杦森松一    ご無沙汰をふたつ重ねて草の餅       石原友夫   菖蒲湯や入れ墨男の玉の汗         村上直樹    ラ・マンチャの風車日暮れて影長く     武藤 幹    軽やかに殺意たかんなに刃 (やいば) 入る  白石正人    母恋えば信濃の森に青葉木菟        赤崎冬生    若僧の読経とつとつ薄暑光         川崎果連    合歓の花余白に憩う哀れかな        石川夏山    見残しの地に降るひかり花の雨       大井恒行   次回、第二回は9月18日(水)、雑詠3句持ち寄りである。  ★閑話休題・・森山光章「旅人の/『梅花の宴』/言之葉は/匂う」(「不虚」19号)・・  森山光章個人誌「不虚(ふこ)」(発行・編集 森山光章)、アフォリズムのような「更なる〔終わり〕へ」の中に、   「中村哲」医師、殺害の犯人は、今だに逮捕されていない (・・・・・・・・・・) 。殺害した犯人・組織は、永久に解明されないだろう (・・・・・・・・・・・・)。 「中村哲」医師・殺害は、「世界権力(イルミナリティ)」の企略である。「世界権力(イルミナリティ)は、〔正義の人〕を許すことはない (・・・・・・・)。 〔正義は解体させられていく〕。         *  すでに詩は死んでいる。私たちのいる場所ははずれてしまっている…  詩は現実を越えきれずに死に絶えてしまったのだ。  とある。ともあれ、他の作品を挙げておこう。   わが死後も天空の独楽まわりけり      木戸葉三    蓮根掘りわらで包んだれんこんを背広姿で持ち帰る父    佐藤ミヨ子       龍女に   妙法を説く   文殊 (わたし) は   死と共にある     ...

松本勇二「あべかんと父が行きたる黄泉に夏」(『風の民』)・・

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   松本勇二第二句集『風の民』(文學の森)、著者「あとがき」に、   平成十四年に初句集『直瀬』を上梓してから何年たったであろうか。次の句集をと思いながら、ついつい先延ばしになってしまった。その間に、「虎杖」の相原左義長師、「海程」の金子兜太師を亡くした。両親も亡くした。その他にもさまざまな出来事があったが、何とか乗り越えてくることができた。  俳句を始めてから四十年になる。『風の民』はその記念碑的な句集となった。作成年別に並べたのも、その記念碑的なものによる。ただ振り返るのみである。  俳句と人生の両輪と思い、どちらも懸命にやってきた。 (中略)   「一句書いて、すぐに死んでしまわず、まだ蠢いているような俳句を」などとよく言っているが、果たしてどうであるか心配だ。  あまり褒めてもらったことのない両親と、いろいろなことを教えてくれた兄に、この句集を天界から眺めてもらいたい。そして、静かにほほえんでもらいたい。  とあった。ともあれ、愚生好みに偏するが、いくつかの句を以下に挙げておきたい。    軍隊は膝に悪かろ遠霞          勇二    電話あり凩郡凩町字凩   運転を狐に替わる花野駅   我等複数森青蛙も複数   父の子でよかった枯葉降り止まず   麦秋や眼を閉じた方が明るい   死後少し残る聴力夕かなかな   ででむしの殻に仕舞いし闘志かな   鷹匠のまず天網を指し示す   母逝くや時雨と言えどはげしかり   夢に来る死者が多くて虫すだく   もういいと云う雪とガンバレと云う霙   カーブミラーの奥の青さよ芒原      松本勇二(まつもと・ゆうじ) 1956年、愛媛県久万高原町生まれ。    撮影・芽夢野うのき「もうなにも吐くものもなく螢袋です」↑

月波与生「のこぎりはやっと切りたいものに触れ」(『ライムライト』)・・

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 月波余生第一句集『ライムライト』(満天の星)、著者「あとがき」に、    川柳を発信するために川柳社『満天の星』を立ち上げて二年、ようやく第一句集をまとめることができました。これからの残り少ない時間、年に個人句集とアンソロジーを各一冊、川柳誌「川柳の話」を二回発行し、広く川柳を発信しながら生きていこうと思います。  句集のタイトルである「ライムライト」はチャップリンの映画からです。印象的な台詞「生きることを怖れなければ人生はすばらしい。必要なものは、勇気と、想像力、そして少しばかりのお金なんだよ」はそのままチャプタータイトルとして使わせていただきました。  とあった。また、タイトルに因む句は、    きみと見るライムライトのような月       与生 であろう。ともあれ、愚生好みに偏するが、本集より、いくつかの句を挙げておきたい。    稜線を見せ合う初めての人と   謝らぬ猿の乾電池を換える   笑ってる写真が少なくてわらう   持ち寄った白をみんなでたしかめる   十月の雨に既読が付いている   さてどうするかをダンボールで作る   ふりがなを付けると味方らしくなる   裏声で飛ぶ八月の戦闘機   猫の鈴残して自己弁護終わる   ヒロインはいつも非常口を持つ   三半規管に自衛隊が詰まる   絶対音感で(イジメハアリマシタ)   二十世紀のしりとりだから休めない   人形の家では死語だけで話す   むらさきもけんもほろろもけむりかな      月波与生(つきなみ・よじょう) フリーランスな川柳人。     撮影・中西ひろ美「ある晴れた日の思い出は隠れがち」↑

黒岩徳将「この中に頭痛のしやぼん玉あらむ」(『渦』)・・

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 黒岩徳将第一句集『渦』(港の人)、その「あとがき」に、    二〇〇六年~二〇二三年の三三〇句を句集に収めた。編年体ではなく、五つの章を立てた。 (中略)   句集題「渦」は友人に提案いただいたものである。これからも事物や人の中で、時に巻き込みながら、時に巻き込まれながら生きていきたい。  詩歌は苦々しい現実から離れて私の呼吸を深くしてくれるものには違いないが、同時に私を現実世界に踏みとどまらせてくれる重石でもある。 (中略)   俳句は苦しい詩型である。しかし、苦しさと同時に復活と再生をも表現できる。負を正に変える力を信じたい。  とあった。ともあれ、愚生好みに偏するが、集中よりいくつかの句を挙げておこう。    LOVEと背に描きたるデモの裸かな      徳将    この蔦を越ゆれば変はる学区かな          いつまでも来ず寒柝の三打目は   蝌蚪の頭が一つ日輪覆ひたる   パイナップルケーキ碧潭風景區   八の字に糞まる犬や豊の秋   俺と牛の頬にほくろや冬青空   遊船や傘も手帳も膝の上   綿虫を見てゐて首が水平に   激流は喉奥にあり蒼鷹   桜蘂降る更新のなき夜空   ゐのこづち下から上に叩き払ふ   たくさんの手を山霧に翳しゐる   黒岩徳将(くろいわ・とくまさ) 1990年、兵庫県神戸市生まれ。 ★閑話休題・・津髙里永子「春の闇襁褓試してごらんなさい」(「~ちょっと立ちどまって~2024,4~」)・・  月に一度、森澤程と津髙里永子二人の葉書通信。毎月、きまじめに各5句がしたためられている。   蝶一頭仙洞御所を出てゆかず       森澤 程                撮影・鈴木純一「音もせず姿も見せず 夜 来たり                                         朝には帰る 立花の 君」↑

佐々木歩「溺れたら人に生まれる冬銀河」(「円錐」第101号より)・・

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 「円錐」第101号(編集委員 山田耕司/今泉康弘)は、「発表 第八回 円錐新鋭作品賞」である。小林恭二推薦・荒野賞は佐々木歩「たましひの器」、山田耕司推薦・白桃賞は青木ともじ「篝」、今泉康弘推薦・白泉賞は織田亮太朗「■■者」。以下に円錐新鋭作品賞受賞の各選者三席までの句を挙げておこう。    腫瘍から焚火の音がしてをりぬ     佐々木歩(荒野賞)    写真館のサンプルずつと冬の人    青木ともじ(白桃賞)    感情力学の■■に芽吹く       織田亮太朗(白泉賞)    次の世も次の世もまた雪女       涼野海音(小林恭二推薦二席)    凝血のまぎは狐火紛れたり       内野義悠( 〃   三席)    収縮をしさうな枇杷の黒き尻      本多遊子(山田耕司推薦二席)    呼名簿にマイクの影のうららけし   山本たくみ(  〃  三席)   夏至の雪法王は口で受ける       加藤 閑(今泉康弘推薦二席)    浴室の母だった赤のまま      ミテイナリコ(  〃  三席)  他に興味深く読んだのは、表健太郎特別寄稿 「寺山修司はChatGPTの夢を見たか? 」と今泉康弘 「玄の軌跡―—上田玄の闘争と俳句」。 以下に同号よりいくつかの作品を挙げておこう。   日短か性愛の無かつたことになつた      吉冨快斗    マウンドに片刃の如しまた打者も     赤羽根めぐみ     尾小さき上り鮎なり放ちけり         小林幹彦    早梅や満場一致とはゆかず          摂氏華氏    顔うつす薄氷いな雨にかな         荒井みづえ    草の花写真に写る時は笑ふ         原田もと子   大風呂敷うまくたためず春彼岸        大和まな    朧夜や重ね置きたる皿と鉢          福田潤子    晩春や一会の雨を肴とし           後藤秀治    縄跳びのほかは茫漠冬山河          横山康夫    男来てでんして戻る桜かな          矢上新八      【でんする】 タッチする    紛失の水兵なりしかなゴジラ         今泉康弘      (愚生注:後書き省略)    出迎へは呵々大笑の里の山         田中位和子    使はれぬまま箸もどり花筵      ...

種田山頭火「濁れる水のなかれつゝ澄む」(松山・一草庵の句碑)・・

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            山頭火「濁れる水のなかれつゝ澄む」↑              「おちついて死ねさうな草枯るる」↑               山頭火翁終焉の家「一草庵」↑  愚生は一昨日、3月8日(水)から、今日10日(金)まで、四国は丸亀と松山に泊まっていた。初日の夕刻よりは、「豈」同人の中島進が設けてくれた席に、この度「豈」同人に加わった観音寺市の各務麗至と一緒に会うためだった。愚生は各務礼麗至に会うのは初めてである。三橋敏雄の弟子の一人だった。翌日は、中島進が、丸亀で名物の朝うどんから始まって昼うどんのうどんづくし。金毘羅宮、金毘羅歌舞伎「金丸座」、そして昔から名残りの、港から続く参道、港の金毘羅講燈籠等々、さらに満濃池と讃岐富士を眺めながら案内していただき、彼の自宅では、奥様のお手前で茶をいただいた。従って、挨拶句を一句したためることになった。道々は麦秋の盛りだった。 金毘羅歌舞伎金丸座↑                 高橋由一記念館↑                  讃岐富士↑  そのま、夜に松山に移動して宿泊、今日は、初めて松山入りを果たし、子規記念博物館、外観だけだが、道後温泉を眺め、そのまま山頭火の一草庵を訪ねた(庵のなかには土日のみ)。だれもいないので一人でゆったりそこにいた。                子規記念博物館前の歌碑↑  というわけで、以下にゆかりの句をいくつか挙げておこう。    鐡鉢の中へも霰              山頭火    春風の鉢の子一つ   月からひらり柿の葉   この道しか無い春の雪降る      春や昔十五万石の城下哉          子規   桔梗活けてしばらく仮の書斎哉   夏草やベースボールの人遠し   をととひのへちまの水もとらざりき   足なへの病いゆとふ伊豫の湯に飛びても行かな鷺にあらませば     愚陀仏は主人 (あるじ) の名なり冬籠    漱石    赤い椿白い椿と落ちにけり        碧梧桐    夏の蝶日かげ日なたと飛びにけり      虚子        撮影・中西ひろ美「惜春の和尚と弟子の閑日や」↑

中田みづほ「吊り上げてすこし下げたる灯籠(とうろ)かな」(『新潟医科大学の俳人教授たち』より)・・

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  中本真人著『新潟医科大学の俳人教授たち』(新潟日報メディアネット)、「あとがき」ともいうべき「おわりに」は、   新潟大学に奉職してから、早くも一〇年が経とうとしています。  新潟に赴任することが決まったとき、かつて高野素十、中田みづほらが教授を務めた新潟大学に、自分も勤められることが素直に嬉しかったのを覚えています。というのも、私は大学生のころから二〇年以上俳句を詠んでおり、俳人で、。大学教員であった素十やみづほに憧れていたからです。そのため、宮廷の御神楽を中心とする古代古典芸能史を研究する一方で、いつか新潟ゆかりの俳人について書いてみたいと考えていました。 そじて、冒頭の「はじめに」には、    或は十年二十年百年と経つうちに本当に俳句の道は新潟よりはじまつたといふことになるのかも知れぬ。    (髙浜虚子「なつかしい情緒が後をひく」「まはぎ」昭和一三年一月号)  大正一一年(一九二二)、官立新潟医学専門学校が医科大学には、医師として、また俳人として活躍した四人の教授が務めていました。中田瑞穂(俳号みづほ)、高野与己 (よしみ) (俳号素十)、浜口一郎(俳号今夜 (こんや) )、及川周 (まこと) (俳号仙石 (せんせき) の四人は、全員が明治二十六年(一八九三)生まれ。東京帝国大学医科大学を卒業した医学者であると同時に、俳人の高浜虚子に師事して『ホトトギス』同人 (どうじん) となりました。 (中略)  冒頭に掲げた一文は、中田みづほの主宰誌『まはぎ』が一〇〇号を迎えたときに、虚子が寄せたものです。虚子は、新潟の俳人たちの実力を認め、さらに強い期待を寄せています。ちょうど四人の教授が揃って活躍していたころでした。  また、「第三章 花鳥諷詠の拠点 新潟医科大学」には、  1.武蔵野探勝会の新潟開催  昭和一二年(一九三七)正月、武蔵野探勝会(むさしのたんしょうかい)が新潟で開催されました。武蔵野探勝会は、昭和五年に髙浜虚子を中心とする吟行会です。毎月一回実施され、同一四年までの一〇〇回続けられました。その名称の通り「武佐際」を探訪することが目的で、)吟行地の大半は東京近郊でしたが、第七七回は新潟で開催されました。  と記されている。ともあれ、本書中より、いくつか句を紹介しておきたい。興味のある方は直接、本書に当たられたい(「ブックレット 新潟大学」新潟日報...