関根かな「人間に触れたき枝垂桜かな」(「小熊座」4月号より)・・


 「小熊座」4月号(小熊座俳句会)、特集は、「豈」同人でもあった関根かなの「追悼 関根かな」。執筆陣は、成田一子「血のつながらぬ寒雀ー関根かなさんを悼む(「滝」2月号より転載)」、渡辺誠一郎「淋しげな眼差しの彼方ー思い出すままに」、佐藤成之「永遠にあなたのいない初景色」、鎌倉道彦「木犀へ」、千倉由穂「鍵束の音」、他に及川真梨子「関根かな二十句抄」。その成田一子は、


(前略)三月のけふもあしたも空低し

    いつまでが戦後桜の咲き続く

    地震の日の雪降る以後の記憶なく

 三・一一や戦争、彼女の大きなテーマだ。毎月の「小熊座」誌の作品でもそうだが、彼女は常に「ここにいる人」以上に「ここにはいない人」に心を通わせようとする。

    夏の星死んでも会へぬ人のゐて

    打水や戦中の子の走る音

 表現は平易だが、奥に重く深いものが横たわっている。難解さがなく、するりと入ってくるが、読者にじわじわと内省をうながす作りとも言える。


 と記している。 合掌! 他の記事で、小田島渚「俳句時評/詩歌の球体」の、結び近くに、


 ここから筆者は、石牟礼の世界観から詩歌の歴史を別のかたちで想像してみたい。詩歌は、時間軸の上で敗者を生みながら批判的にはってんするものというもより、むしろ球体状に広がるものではないだろうか。石牟礼が女性の詩歌を再興したとしても、額田王も柿本人麻呂も敗者となって消失はしない。球体には様々な可能性が消えずに呑み込まれていく。石牟礼の俳句もまた、この球体の外にあるのではない。その意味でいえば、昭和三十年代に隆盛し、その後勢いを失ったかに見える前衛俳句もまた、排除されることなく未来へと繋がっていく。さらにこの球体は権威となる中心を持たず、おsの拡大の先に、目指すべきただ一つの俳句像もない。球面の至るところで、ざわざわと俳句が生まれ続ける。一切が取りこぼされず、球体そのもが詩歌であり俳句である。


 とあった。ともあれ、本誌本号より、いくつかの句を挙げておこう。


  牡丹雪雪天の横隔膜動き        高野ムツオ

  天上に人生きられぬ室の花       渡辺誠一郎

  あの世より逃れてきたる鶴の声     津髙里永子

  月光は降りしきるけど積らない     丸山千代子

  いちめんのみどりごいちめんの春の星   川口真理

  存へば永訣多し雲に鳥          増田陽一

  三光鳥いづれのひかりも痛みたり    仁藤さくら

  左義長の火柱夫はもうおらず       日下節子

  煮凝のへこみしままや再稼働       植木國夫

  死化粧は冬灯に曇る額より        春日石疼

  星冴えて星にあらざるもの光る      佐川盟子

  葛湯飲む少々星屑を加え         佐藤成之



   撮影・芽夢野うのき「さくらの夜夢夢まこと世はゆりかご」↑

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