北夙川不可止「天鵞絨(ビロオド)の毛竝撫づれば喉ならす吾が黒猫よその名ぬばたま」(『ぬばたま』)・・
北夙川不可止『ぬばたま』(エディション・エフ)、跋文の寮美千子「永遠の幼子 伯爵」の中に、
「北夙川といいます。いつもこんな格好をしているので,『伯爵』と呼ばれています」
そう自己紹介をした彼は、なるほど、三つ揃いの背広に懐中時計、仕立てのいいワイシャツに片眼鏡と、いかにも「伯爵」というあだ名にふさわしい出たちだった。(中略)
伯爵と短歌との出会いもまた「刑務所」がきっかけだった。実はかれは二十九歳から三十四歳まで、五年間を獄中で過ごしている。(中略)
一九九四年の三月のことだったという。「北夙川という筆名はこのときつけました。下の名前の不可止は石井先生が『男の子がうまれたらつけるつもりだったのだけど、女の子しか生まれなかったから』とくださったものです」
五月には、投稿した歌が早くも佐佐木幸綱氏の朝日歌壇に載った。誘われてアララギに。十月号から投稿開始、投稿した十二首のうちいきなり四首が掲載された。それから五か月間連続で特選になり、「獄中から彗星のように現れた新人」と話題を呼んだ。(中略)
強い好奇心を持ち、好きなものにまっしぐらに駈けてゆく。一切の忖度なしに批判の声を上げる。成熟した大人の美の感受性と深い教養を持ちながらも、彼はまるで、どこまでも無垢な幼子のようだ。この地上は、彼にとって永遠の遊び場なのかも知れない。百五十歳まで生きると豪語する幼子に、永久に栄えあれ!
とあり、北夙川不可止の自跋には、
短歌を始めたのは千九百九十四年の春先のこと。(中略)師は故石井登喜夫先生。『アララギ』の撰者・編輯委員でいらした。吾が父は七ヶ國語ほどを自在に操る語學の化け物なのだが、その父に最初の英語の手ほどきをしたのが黨時發足したばかりの新制中學の代用教員をしてゐた石井先生なので、親子二代に亙る弟子といふことになる。但し、小生は関西語しか話さないが。(中略)
小生はオープンリーゲイである。最近よく聞く言葉でいへば、LGBTの一員といふことになる。だからといつて殊更に「ゲイ歌人」を名乗りそれを「賈り」にしたくはない。小生がゲイであることは小生が日本人であり關西人であることと同じく、小生の属性の一つに過ぎないからだ。
とあった。扉に「こころより愛した黒猫、ぬばたまに献ぐ」の献辞がある。ともあれ、本集よりいくつかの句歌を挙げておきたい(原歌は旧正字)。
廃校となりてふた月學び舎のピアノを弾けばはや狂ひをり 不可止
二日間共に過ごせし少年は涙ぐみつつバスに乗り込む
闇だけの夜 闇だけの寝室に真黒き猫のすり寄る気配
人形(ひとがた)の吐息に揺るる燈火(ともしび)よ約束はまだ果されぬまま
レクエイム聴けども心静まらず眠れぬままに夜の明け初めり
三が日猫の病に明け暮れて屠蘇も雑煮もなきままに過ぐ
それぞれに異なる人を偲びつつ共に巡るは浪花七墓
仕立屋のマークは黒き猫にして旧居留地に五月雨の降る
LGBTのレインボー旗数多はためきて西門紅樓に親しみの湧く
これほどに泣けるものとは ぬばたまの逝きて四日目春の雨降る
「コクミン」と無邪気に叫び国民に非ざる者を思はぬか君
「美しき日本」はどこへ行くやらむ殺伐として過去を消しつつ
黒猫と籠りて過ごす原爆忌亡命先へ想ひはせつつ
六甲山(むこやま)に雪積みてをり吾が猫は膝上(ひざうへ)に乗りて動かず
微かなる伽羅(きやら)聞き比ぶ薄暑かな
蔦絡む館の窓辺虎落笛
大声を出せぬ病院抜け出(い)でて讃美歌うたふ聲たからかに
次々と倒れる前に障害が見つかることを奇貨と寝(い)ねをり
★閑話休題・・北夙川不可止・黒沢永紀(写真も)『東西名品昭和モダン建築案内・新装版』(書肆侃侃房)・・
本書の「はじめに」に、
本書は1920年代、すなわち日本でいう大正末期から昭和初期に建設され、かつ現存する建物を中心にまとめたものである。(中略)
また、本書では日本の二大都市圏である東京圏と京阪神圏に焦点を当て、東西を対比して並べる構成をとった。それぞれの都市圏の個性をビジュアル面からも体感していただければと願っている。グローバル化といえば聞こえがいいが、日本全国あらゆる面で画一化、均質化が進むいま、その地方その地方の個性、文化的な相違というものの重要性をいま一度核に運したいとの菅家からである。
とあった。
北夙川不可止(きたしゅくがわ・ふかし) 1964年、兵庫県西宮市生まれ。
黒沢永紀(くろさわ・ひさき) 1961年、東京都新宿区生まれ。
撮影・中西ひろ美「まぼろしの郷のありけり煤払い」↑

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