高屋窓秋「星影を時影として生きてをり」(『現代俳句ノートー名句を味わう』より)・・


 髙柳克弘著『現代俳句ノートーー名句を味わう』(ふらんす堂)、著者「あとがき」に、


 本書は、近・現代俳人の名句秀句を鑑賞したものである。詩歌の出版社「ふらんす堂」が発行している「ふらんす堂通信」の二〇一二年四月から二〇二一年一〇月まで連載し、ホームページにも掲載していただいた原稿に、加筆修正を行って一冊とした。中略)俳句は作ることももちろん楽しいのだが、それ以上に読むことに魅力があると考えている。社会で使われている決まり文句ではない、ちょっと奇妙で独創的な言葉が躍動していることが、私にとっては楽しくてたまらない。(中略)名句秀句は、時代の移ろいとともに新しい人に読まれ、新しい解釈を生んでこそ受け継がれる。一つの解釈が定まってしまえば、どんな崇高なことが書いてあったとしても、その句は苔に覆われた石碑に刻まれているのと同じだ。


とある。収録俳人は20名。例えば、高屋窓秋の項の中に、


 (前略)星影を時影として生きてをり   (『高屋窓秋俳句集成』)

 星影は、星の光。時影は、窓秋の造語だ。時間という、見えない概念を「(影」光」として捉えた。以下にも窓秋らしい把握だ。星までの距離は、光年という単位であらわす。それはわれわれにとってはほとんど永遠に等しい、途方もない年月だ。ふだん、我々はそんな広大な時間を意識することなく、腕時計や掛時計の刻む一分とか一時間という些末な時間に縛られて生きている。

 だが、この句では、自分は世俗の時間ではなく、宇宙の時間によって生きているのだと、表明している。永遠の時間の中に布置することで、自分自身をも抽象化してしまったような句だ。

 この句は窓秋が亡くなる平成十一年、「現代俳句」一月号に発表された。事実上の遺作である。イメージの鮮明さを競ってきた近代俳句の歴史の中で、むしろ抽象度の高い句を作ろうとした窓秋の、一つの達成がここに示されている。


 とあった。見事な評である。ともあれ、以下に、本書より、幾人かの俳人の句を挙げておこう。


  馬酔木咲く金堂の扉(と)にわが触れぬ    水原秋櫻子『葛飾』

  蟾蜍長子家去る由もなし           中村草田男『長子』

  外にも出よ触るるばかりに春の月        中村汀女『花影』

  金雀枝や基督に抱かると思へ          石田波郷『雨覆』

  あなたなる夜雨の葛のあなたかな        芝不器男『芝不器男句集』 

  春暁や人こそ知らね樹々(きぎ)の雨      日野草城『花氷』

  美しき緑走れり夏料理             星野立子『笹目』

  ひるがほに電流かよひゐはせぬか        三橋鷹女『向日葵』

  山鳩よみればまはりに雪がふる         高屋窓秋『白い夏野』

  雪だるま星のおしやべりぺちやくちやと    松本たかし『石魂』

  秋風や模様のちがふ皿二つ           原 石鼎『花影』

  いなびかり北よりすれば北を見る       橋本多佳子『紅絲』

  草二本だけ生へてゐる 時間         富澤赤黄男『黙示』

  誰彼もあらず一天自尊の秋           飯田蛇笏『椿花集』

  一月の川一月の谷の中             飯田龍太『春の道』

  みな大き袋を負へり雁渡る           西東三鬼『夜の桃』

  子を殴(う)ちしながき一瞬天の蟬      秋元不死男『街』

  菫程な小さき人に生れたし           夏目漱石(明治30年作)

  桜貝長き翼の海の星             波多野爽波『湯呑』

  天の川水車は水をあげてこぼす         川崎展宏『葛の葉』

  黄の青の赤の雨傘誰から死ぬ         林田紀音夫『風触』

  切株があり愚直の斧があり           佐藤鬼房『夜の崖』

  あるときは船より高き卯波かな        鈴木真砂女『生簀籠』

  うしろすがたのしぐれてゆくか        種田山頭火(昭和6年作)

  さきみちてさくらあをざめゐたるかな      野澤節子『飛泉』

  銭とりて花みるむしろ貸しにけり      久保田万太郎『流寓抄』



      撮影・中西ひろ美「北斗市はこんな所で青水無月」↑

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