高岡修「たれもみな未完の桜死にゆかむ」(「みらいらん」第14号より)・・
「みらいらん」第14号(洪水企画)、特集は「詩と俳句を貫くものー高岡修を中心に」である。その座談会は、高岡修・藤沢周・城戸朱理「世界の中枢を言葉の針で刺す」。その中に、
(前略)城戸 高岡さんの場合は俳句は吉岡禅寺洞、前原東作の流れを汲んだ「形象」の、加入時では最年少のメンバーで、最終的には主幹として継続されている。吉岡禅寺洞はもともとホトトギスに「いたけれども戦後一気に有季定型、文語体から離れて全く自由な新しい俳句を模索していって、つまり一行詩に近づいていくわけです。吉岡禅寺洞の辞世の句は「冬木の木ずれの音だれもきいていない」で、完全に自由律になっている。でも自由律の運動も長く続いたものではなかった。やはり限界が来る。(中略)
高岡 自由律の俳句の弱いところは、意味だけで書くようなところにある。本当はそうではなくて、俳句というのは景色を入れながら心情を入れていく。景色と心情が一体化するところにある。それは季語の効用のひとつでもあるのですが、「形象」というのは「イメージ」で、イメージの中に意味を加味していく、ということです。私はそういうところで俳句をやって、そのやり方を詩にも持っていった。(中略)俳句で書けないというときには詩で書くし、これは一行で書く方が強いというときには俳句で書くわけです。そのとき、日本語の五七五という韻律はすごく美しい。私は詩を書いているから自由律で書く意味があまりなくて、今はもっぱら五七五で書いています。
とある。その他、論考に、富岡幸一郎「詩を斬首せよー高岡修とは何者か」、堀田季何「現代俳句は現代詩である」、山下久代「言葉の世界で虚無と闘う」、石田瑞穂「生成流転するポエジー」、渡辺めぐみ「高岡修詩集『微笑販売機』を読んでー虚無に抗う」、松尾真由美「南の風土・詩の情景」、平川綾真智「富岡修という贈与」、うるし山千尋「高岡修の『眼』ー詩集『微笑販売機』を読む」、八木寧子「春まだき 二〇二四年三月十七日ドキュメント」、柴田千晶「二つの海」、池田康「特集おぼえがき」。
特集以外では、巻頭詩に蜂飼耳・田中庸介・八重樫克羅・北條裕子・青木由弥子・肌勢とみ子。連載詩」に野村喜和夫、林浩平などが並ぶ。また、「批評散文」の項で、江田浩司が「私の読んだ詩集のお話。」のなかで、愚生の『水月伝』について、丁寧に批評してくれている。その一部分を引用すると、
(前略)大井恒行『水月伝』(二〇二四年四月、ふらんす堂)には、生前、私がお会いする機会のあった俳人の追悼句が、数多く収録されている。また、その句を囲むように収録される句の多くは、日本と世界の現況を反映した、現世への追悼句でもある。個人の死と社会(日本、世界)の死が、俳句によって併せて詠まれた句集として、『水月伝』は、その名にふさわしく、深く澄んだ感慨を湛えている。
とあった。ともあれ、以下に、本誌より高岡修の句をいくつか挙げておきたい。
あおあおと銀河にもある津波痕 修
踏切を渡れるは地震/春の死者
海底のピアノ連弾して果てる
被爆者でない僕の中の爆心地
虚無の世に舌入れている縄の端
壮大な流刑を見せて夏銀河
高岡修(たかおか・おさむ) 1948年、愛媛県生まれ。
村井康司氏↑
★閑話休題・・【いーぐる連続講演】村井康司・連続レクチャー「時空を超えるジャズ史」第3回(於:四ッ谷いーぐる)・・
7月13日(土)午後三時半から。四ッ谷いーぐるに於いて、村井康司・連続レクチャー「時空を超えるジャズ史」第3回の「ジャズの故郷。ニューオリンズ音楽の歴史:バディ・ボールデンからジョン・バティステまで」が行われ、聴きに行った。ほぼ満席だった。愚生にとっては、村井康司の語りはけっこう楽しみになっているのだ。次回。8月も行きたいが、どうやら、予定は重複しているようだ。
撮影・芽夢野うのき「芭蕉より飛ぶ鳥しずか七月を」↑

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