星野麥丘人「花旺(さか)んカバもキリンもネンテンも」(『老いの俳句』)・・
坪内稔典『老いの俳句/君とつるりんしたいなあ』(ウエップ)、帯の惹句に、
あとがない!!ねんてんさんはあせっている。80歳の大台にのるのだ。言葉と関り、〈口誦性〉〈片言性〉を唱えてきたー。寄る年波を自覚しつつ。それを逆手に“跳び過ぎ“老人になるのだ!!もちろん老いと俳句の関係についての考察も、おさおさ怠りない、快進撃のエッセーである。
とある。「WEP俳句通信」に連載されたものを含む一本である。「俳句の傑作について」では、
俳句の傑作に二つある。一つは五七五のすぐれた表現がもたらす傑作。もう一つは月並み句としての傑作。
爛々と昼の星見え菌(きのこ)生え
去年今年貫く棒の如きもの
右の高浜虚子の句でいえば前者が「爛々と」、後者が「去年今年」である。(中略)
月並みとは子規が言い出したことであり、発想や表現が陳腐・平板な句を指す。実は、作られている俳句のほとんどは月並みなのではないか、と私は思っている。あるいは、月並みではないが独りよがりに陥っている句だ。この両者が九十九パーセントを占めている、と断定してもよい。
つまり、俳句はほとんどが月並みか独善なのだ。その月並みと独善を超えて、たまに傑作が生まれるのである。もちろん、私もその月並みと独善のなかであれこれと試行している一人である。
かほどにネンテン氏、言うほどモーロクの気配がない。とりわけ「Ⅱ 俳句のある場所」の章の「口語をころがして」の中には、
(前略)俳句は五七五という定型の詩、その定型には文語があう、という考えが広く浸透している。この考え、疑っていいのではないか。いや、この蔓延した考えをくつがえすことが今の時代に俳句を作る愉しみなのではないか。
実は、口語で発想し、口語によって表現することで、その都度、口語の文語化を試みている。書きとめて文にする行為は、言葉を文語に転じることである。すでに文語と認められているものを使うより、口語を使う方がはるかにスリリングではないか。私はそのスリリングに魅せられている気がする。
とあり、また「作者を読むのか、句を読むのか」、「俳句は問答」には、
(前略)俳句は575の表現の技を競う文芸なのだ。だから、俳人として世に立つ人は、俳句の技で立たなければならない。
俳句の技で立つとはどういうことか。今までになかった俳句を世に出すことである。
日盛りに蝶のふれ合ふ音すなり 青々
(前略)現在の句だって、ほとんどは分からない。たとえば新刊の句集を開いた場合、いいと思う句が数句あれば拾い物だ。ほとんどの句は駄作、あるいはごく一般的な句である。駄作の域を抜け出すには何か技術というか、工夫がいるのだろうか。
いると思う。端的にいえば大胆な発想と表現が必要だ。芭蕉はそれを新しさと言い、蕪村は俗を去ると言った。(中略)
俳句は五七五、しかも季語もあって、とってもきっちりしている感じがする。でも、俳句表現の核は問答という恣意性だ。とってもとってもでたらめなのである。
言うまでもないだろうが、恣意性とは言葉が本来持っている自由だ。でたらめを存分に楽しむ文芸、それが俳句なのだろう。
とあった。ともあれ、本書中からいくつかの句を以下に挙げておこう。
秋刀魚焼く死ぬのがこはい日なりけり 草間時彦
春立つと虹かけて野のはしやぐかな 大石悦子
デコポンとやりたいなんてまあ 坪内稔典
葱日本太いのとちよつと細いのと 行方克巳
白葱のひかりの棒をいま刻む 黒田杏子
水枕ガバリと寒い海がある 西東三鬼
玉葱を引き抜くからだ軽くなる 三宅やよい
緑立つタツノオトシゴ的浮遊 芳野ヒロユキ
打ち水を避けると届く地中海 赤石 忍
坪内稔典(つぼうち・ねんてん) 1944年、愛媛県生まれ。
撮影・芽夢野うのき「つはぶきのいつよりはぐれ咲きなるか」↑

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