臼田亞浪「かつこうや何処までゆかば人に逢はむ」(『臼田亞浪の百句』より)・・
西池冬扇『臼田亞浪の百句』(ふらんす堂)、右ページに臼田亞浪の一句と左ページにその鑑賞というレイアウトは、他の百句シリーズと同様。巻末に、「臼田亞浪小論『まこと』の系譜」を収録されている。その中に、
(前略)大正3年の「ホトトギス」に発表した「俳句に甦りて」では、河東碧梧桐の新傾向俳句に反対する一方で、高浜虚子の「主観平明主義」も「力の無い句」を生み出していると難じています。つまり両者の傾向に対し、自分が第三に道を歩むと宣言したのです。(中略)
亞浪が多くの俳人を育てたこと、日本における文化の想念の一つ「まこと」の近代以降の提唱者であり、また「寂しさと旅」という日本近代の精神の一つを俳句で表現したという実績があるにもかかわらず、戦後から現代にいたるまで相応の評価を得ていないのはなぜでしょうか。この疑問は筑紫磐井氏もたびたび発言していますので門下生筋の私の贔屓故ではないと思います。
とある。鑑賞文の二例と、亞浪の句をいくつか以下に挙げておきたい。
冬木中一本道を通りけり 一九一五年
(大正四年)
3月には「楠花」を創刊して「俳句は純正なる民族詩」と規定して3つの宣言を発表している。内容的にはホトトギス派と新傾向派の中間の位置を占めることを宣言したといってよい。①民族詩という既定のもとに内的に新生活から生まれる新生命を希求し、外的に季語と十七音の詩形とを肯定。②守旧的思想、党派的観念を打破し、虚妄なる非俳句的傾向を革正し疎懶なる遊技者流を警醒する。③門戸なく、師弟なし、創刊号の宣言にそのように述べられている。この句は亞浪が今後歩く道を象徴化したのだろう。
元朝の日がさす縁をふみありく 一九二七年
(昭和二年)
新年の句をこのような日常の動作で示したところに亞なの面白さがある。大野林火はこの句は『俳句を求むる心』における亞浪の思想が具現化したものと説いている。平明さ、作者の日常生活を詠ったところを評したものであろう。『俳句を求むる心』で亜浪が述べた「私の俳句を求むる心は、第一義諦としての人間の完成へ!がそれである」などの言葉は弟子の大野林火でも観念臭が強く閉口していたと思う。だが、この頃の人間の日常の体温のある句が「まこと」の句と感得したのであろう。
氷挽く音こきこきと杉間かな (大正5年)
月原や我が影を吹く風の音 (大正11年)
山霧に蛍きりきり吹かれけり (大正14年)
死ぬものは死にゆく躑躅燃えてをり (大正15年)
山蛙けけらけけらと夜が移る (昭和2年)
草が萌えてる此処まで浪の伸びて来い (昭和7年)
榠櫨咲くと見て眠りたり霽れてをり (昭和15年)
ぴほぴぴほぴと木の芽誘ひの雨の鵯 (昭和20年)
忍べとのらす御声のくらし蟬しぐれ (昭和20年)
羽子ひびく焦土に遠く日は懸り (昭和22年)
石楠花のまざまざと夢滅びぬる (昭和25年)
西池冬扇(にしいけ・とうせん) 1944年、大阪生まれ。
撮影・中西ひろ美「ハロウィーンよりも確かな菊供養」↑
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