仁平勝「春眠といふ恍惚のかたちあり」(『日々季語日和』)・・

 

 髙田正子『日々季語日和』(コールサック社)、著者「「あとがき」に、


 第Ⅰ章は「日本経済新聞に、第Ⅱ章は「毎日新聞」に掲載されたものをまとめました。「日本経済新聞社」のコラムは二〇〇八年四月から二〇一二年三月まで「耳を澄まして あの歌この句」のタイトルのもと、歌人二人俳人二人で書き継いだものです。(中略)

 社会部の担当デスクが選んでくださった私の肩書(?)は「二女の母」でしたから、ネタ探しの矛先は自ずと当時中高生であった娘たちに向きました。読み返すと娘たちと一緒に若い私がいて、くすぐったい気分です。(中略)

 「毎日新聞」のコラムは二〇一八年四月からですから、二つの間には十年の隔たりがあります。二〇二三年一月現在執筆継続中で、コラムでは見出しを考える楽しみ(苦しみ)も味わっています。


 とある。集中より、季節もちょうど今頃の、ブログタイトルにした仁平勝「春眠といふ恍惚のかたちあり」の部分を紹介しておきたい。


 (前略)恍惚とは恍も惚も心ここにあらずの状態をいう。ひと目惚れの惚である。老いのひとつの形態をさすこともあるが、つまりそうやって人は赤子に還っていくということなのかもしれない。

 今日の句は句集『黄金の街』(二〇一〇年刊)より。表紙には新宿のゴールデン街がモノクロ写真であしらわれ、章立てが「世代論」「国家論」「転向論」などとなっていてる。団塊の世代の遊び心が満載の句集である。

 この句は〈寝たふりをして木枯の音を聞く〉や〈起きる夢見ながら朝寝してをりぬ〉とともに「疎外論」に収められている。となると、がぜん気になってくる。恍惚のかたちに気づいたとき、作者がどういう状況にあったのかが。気づくとは、心ここにありということ。恍惚と対極ではないか。

 春眠から疎外されてしまうのは切ない。すべての生きとし生けるものに、再び恍惚たる眠りを。


 とあった。ともあれ、以下には、集中より、愚生好みになるが、句のみをいくつか挙げておきたい。

 

  くらがりへ祇園囃子を抜けにけり   黒田杏子 

  大きな木大きな木蔭夏休み     宇多喜代子

  そこばくの羽根風に立ち羽抜鳥    奥坂まや

  柿うましそれぞれが良き名を持ちて  細谷喨々

  日記果つ父老い長嶋茂雄老い     小川軽舟

  鎌首を立ててゴーヤの蔓のぼる   正木ゆう子

  一滴が一滴を生みしたたれる     行方克巳

  逢ふとは目をそらさずにマスクとる  仙田洋子

  落葉のせ水は流れを忘れをり     星野 椿

  四十雀絵より小さく来たりけり    中西夕紀

  川底も真水の色や夏休        星野高士

  黒髪の母のその子の夏帽子      岸本尚毅

  ほうたるの今日の機嫌の水の音    髙田正子


 髙田正子(たかだ・まさこ)1959年、岐阜市生まれ。



     撮影・中西ひろ美「かぎろいて竹林へつづく道あり」↑

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