久保田紺「これからのパン粉としての暮らし方」(「晴」第6号より)・・・
「晴」第6号(編集発行人 樋口由紀子)、その「後記」に、
ひとり暮らしのマンション生活を七か月過ごして、自宅の離れに戻ってきました。しかし、またひとり暮らしです。夫が病院のクラスターに巻き込まれ、コロナ感染症で亡くなりました。ひとり暮らしといっても、母屋に住む息子一家とはドア一枚で繋がっていて、毎日孫娘たちが出入りしています。夫とは学生時代に知り合い、結婚して四十五年。川柳歴は四十一年。夫の理解あってこその川柳でした。私に川柳があってよかったとしみじみ思いました。
とある。合掌…。巻頭の論考は、今泉康弘「ゴダールが死んだ秋、ポストモダン川柳について私が考えた二、三の事柄」。前田雀郎(1897年生まれ)「電灯の紐の長さの暮しする」と久保田紺(1959年生まれ)「これからのパン粉としての暮らし方」の両句を併記した上で、
(前略)それに対して(愚生注:雀郎の句に対して)、紺の〈これからのパン粉としての暮らし方〉はどうか。これは出来事の描写とは見えない。なぜなら、「として」が特殊な使われ方をしているからだ。ふつう、「○○としての暮らし」という表現を使うときは「社会人といて」「大人として」などとするだろう。それがここでは「パン粉」が用いられている。これは違例な表現である。この違例さとは何だろう。あえて「意味」を考えるとこうなる。―「私はこの世界において人間であることに違和感を感じている。だから人間ではなくて、これからパン粉として暮らそう」…。実際にパン粉に変身するという幻想であることも絶対にないととは言えないが、人間でありつつパン粉のように暮らしていく、と解釈するべきだろう。すなわち、「パン粉」は比喩である。では、この「パン粉」比喩としてどう働いているか?それが難解である。何らかのこじつけもできなくはない。だが、結局、この難解さは比喩としての理解を拒否していると考えた方が良いのではないか。雀郎の句とは異なり、紺の句での「パン粉」の比喩は読者の理解を求めていない。(中略)
すなわち、世界への違和感を、一句の中での語彙の違例な配置によって表す。取り合わせ違例さが、世界への違和感の表出なのである。(中略)
かつて川上三太郎は俳人に対してこう言った――「どこまでが俳句か、俳句の方で決めてくれ、それ以外は全部川柳でもらおう」(『短歌俳句川柳101年』によると、この言葉は有名だという)。この三太郎の言葉をぼくの論につなげると――近代俳句が映像性を基本とするとすれば、近代川柳の領域は「それ以外」=映像性以外だ、ということになる。したがって、近代川柳は映像性を回避することになる。もし、川柳が映像性を本質としたら、俳句と同じになrち、存在が消滅してしまうからである。ここにおいて、比喩が重視される。比喩は古川柳以来のものであり、映像性とは対立する。すなわち、比喩は川柳の存在証明として重視されてきたのではないか。
と述べている。ともあれ、本誌より一人一句を挙げておきたい。
ふくろうの首から霧は流れでる 妹尾 凛
寒そうな岸辺にそよぐ川柳(かわやなぎ) 水本石華
ひまわりに視線逸らすな助言する いなだ豆乃助
最高の三分の一が出来ました 樋口由紀子
そもそものひとつのそもをもそもそと 広瀬ちえみ
法に触れると泡立ちが悪い きゅういち
空き壜は水色五月は酸化する 松永千秋
遠近法狂ったままの遊園地 月波与生
撮影・中西ひろ美「花あり人そして青山ここにあり」↑
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