細谷源二「鉄工葬をはり真赤な鉄うてり」(特別展「細谷源二と齋藤玄 北方詩としての俳句」より)・・
特別展「細谷源二と齋藤玄 北方詩としての俳句」於:北海道立文学館・特別展示室、2023年1月21日(土)~3月19日(日)。一般500円、高大生250円・65歳以上無料。特別展の図録の監修は五十嵐秀彦。 巻末のエッセイは、マブソン青眼「源二『俳句事件』仏訳と『俳句弾圧不忘の碑』とウクライナと」、鈴木牛後「『生の俳句』と『死の俳句』」、瀬戸優理子「『挑戦のバトン』」。
関連事業としての開催期間中の残りは、2月26日(日』14時~15時30分の鼎談・五十嵐秀彦・鈴木牛後・瀬戸優理子。3月12日(日)14時~15時、マブソン青眼講演会「細谷源二著『俳句事件』ー『俳句弾圧不忘の碑』からフランス語訳の出版まで」。いずれも定員35名(要申込)・聴講無料。図録の冒頭の五十嵐秀彦「細谷源二と齋藤玄 北方詩としての俳句」では、
戦後の北海道俳句を強力に牽引したふたりの俳人がいました。
細谷源二と齋藤玄です。
細谷源二は明治三十九年(一九〇六)東京生れ。昭和二十年(一九四五)北海道十勝に入植し、以来「はたらくものの俳句」を標榜。「氷原帯」誌を主宰しリアリズム俳句を作り続けました。
齋藤玄は大正三年(一九一四)函館市生れ。石田波郷に師事し、「壺」誌を主宰。独特の「幽玄」の世界と「生死」を見つめる俳句を作り続けました。
対照的なふたりの作家でしたが、共通点もありました。それは新興俳句運動と北方俳句という非常に重要な共通点であり、それが創作の原動力となりさらには到達点をなすものとなったのです。(中略)
戦時の弾圧の中で途絶えてしまった新興俳句の精神は「壺」の齋藤玄や、東京の新興俳句の核心に生きた細谷源二の北海道移住によって戦後に引き継がれ、その後ふたりの卓越した到達点をしるすこととなるのでした。源二の「はたらくものの俳句」も玄の「幽玄」もそのバックボーンとして北海道の寒烈な風土に根ざした精神性を色濃く置くことから、中央俳壇の花鳥諷詠を踏襲しない俳句観である北方詩としての俳句を作り出したのです。(中略)
細谷源二がリアリズムと冒険的な前衛性との相克に苦悩したように、齋藤玄は伝統と現代という次元の両立に苦悩しました。しかし、ふたりとも大切にしたものは肉声の詩でした。既成の様式に安住してはならず、自分自身をとことん凝視するところから肉声の詩が生れる。そこに無意識下の風土が姿をあらわす。そのい風土は従来の俳句が拠り所とした温暖な風土ではなく厳しい北辺の風土なのです。
とあった。ともあれ、本図録には「源二の百句・玄の百句」も収められている。いくつかの句を以下に挙げておきたい。
夕焼に油まみれの手を洗ふ 源二
英霊をかざりぺたんと坐る寡婦
明日伐る木ものをいはざるみな冬木
地の涯に倖せありと来しが雪
父の死や布団の下にはした銭
寒妻臥せば墓などに似る墓になるな
今年また山河凍るを誰も防がず
火の棘を抜かず飯食う火夫ひとり
「絶句」
鳥鳴きながら木のてっぺんの木の旅行
鉄骨のきしり職工群となる 玄
別るるや野分を前の明り星
北へとる路ばかりなり花さびた
炎天といのちの間にもの置かず
さむざむと非力に北は怖ろしき
明日死ぬ妻が明日の炎天嘆くなり
たましひの繭となるまで吹雪けり
初蝶をとらふればみな風ならむ
「絶句」
死が見ゆるとはなにごとぞ花山椒
・細谷源二(ほそや・げんじ)1906(明治39)~1970年(昭和45)。
・齋藤玄(さいとう・げん)1914(大正3)~19080年(昭和55)。
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